「料理人の考えていること」の2つ目は「風味が活かされていること」である。
食材の風味を活かして料理をつくることは重要である。そのためには、「風味とは何か」を理解する必要があると考え、味覚と嗅覚の仕組みから風味を考えることにした。
味覚と嗅覚の仕組み
味覚の5基本味のうち、甘味、うま味、塩味は生まれながら生得的に好まれる。対して、酸味、苦味は生得的に嫌われる。体にいいとか、悪いとか、栄養情報を脳に運んでいるという見方がされる。
嗅覚は、味との連合学習で好き嫌いが決まる。生まれながらに、匂いの好き嫌いは決まっていないのである。連合学習は羊水に浸かっているときから始まると言われている。母親の食べたものの香気成分が血中を通って羊水にいって、赤ちゃんはその匂いを感じることことがあり、そこから学習が始まる。羊水にも母乳にも出て来る。それが記憶情報として赤ちゃんの脳に蓄積されていく。幼いころに食べたものなどの記憶を、大人になってから匂いをきっかけに思い出すことを「プルースト効果」という。つまり嗅覚は記憶情報であると言える。
食文化を、その土地の人々の多くの人の好み、と捉えると、個人の好き嫌いは匂いで決まるので、食文化も匂いで説明できることは多い。なぜなら、味の好き嫌いは、すでに決まっていて、匂いの好き嫌いは学習によって形成されていくものだからである。つまり和食の風味を好むということは、和食で使われる食材の風味を好むということである。
嗅覚に関しては、香り(匂い)は世の中に数十万種類あるが、人が認識できるのは1万種類といわれている。しかし受容体は400種類しかない。ここに嗅覚と味覚の大きな違いがある。例えば、塩味は塩味の受容体にくっつく。うま味はうま味の受容体にくっつく。しかし、匂いは400種類の受容体で1万種類を分析、解釈できる。それはどういうことかというと、匂いはパターン認識であるからである。匂いが組み合わさると違う匂いになることがあるが、それが料理の中でスパイスとかハーブを使う理由の一つである。
嗅覚受容体は嗅神経の先にあり、鼻の前からくる物質と鼻の後ろからくる物質が同じところにくっつく。嗅覚で受容された後、その情報は脳にいくが、嗅覚の場合、嗅球という嗅覚の元締めと扁桃体という好き嫌いを判断する脳部位が近い。従って、匂いはすぐに好き嫌いが判断される。
味覚受容体の種類
味覚受容体として、塩味は2種類、酸味は2種類、甘味は1種類、うま味は3種類、苦味は25種類ある。受容体は味細胞に発現しているタンパク質で、味細胞の集まりは、舌の前方の茸状乳頭、舌の脇の葉状乳頭、喉の奥の有郭乳頭にある。それぞれの味細胞は味覚神経とつながっている。味成分が受容体にくっつくと電気信号が起こって脳に情報が伝えられる。
風味とは何か
空気中に漂っているものを匂うのが香り。鼻の前から入ってくる香気を前鼻腔香気という。対して、後ろから、ワインや食べ物を食べて鼻から抜いた時の嗅覚を後鼻腔香気という。風味とは味+後鼻腔の香りである。食べ物を食べた時、味と後鼻腔の匂いを分割して感じることは不可能であり、かならず同時に感じる。鼻をつまんで食べると味だけを感じることはできる。しかし、後鼻腔の匂いだけを感じることは難しい。食べ物を咀嚼しているときに、鼻から息を吐き出すことによって、風味を感じることができる。つまり、風味は、脳で味の情報と後鼻腔の香りの情報が合成されたものである。
*[前鼻腔の香りと後鼻腔の香り]
写真の料理は、真ん中に穴があいていて、そこにハーブとドライアイスが詰まっている。周りにマグロが置いてあって、ギャルソンが上から水をかけるとドライスアイスの白い煙が出るが、それに伴い気流に乗ってハーブの香りがする。香りの中でトロを食べるという料理である。最近の研究では前鼻腔の香りと後鼻腔の香りは違うように認識されるので、あくまで鼻の前で匂うのは雰囲気の匂いである。ハーブの中で食べているのとハーブと一緒に食べるのとは違う。誤解されやすいが、料理人が何をそれで表現したいのか、口の中で感じさせたいのか、鼻の前で感じさせたいのか、という観点で言うと、これはあくまで風味ではないということになる。
どういう情報が脳にいくか。
味も香りも一緒で、質、濃度、時間の3つの情報が脳に伝えられる。質は、甘味とかレモンの香り、などのこと。濃度は、主観的に感じる強さとして認識される。次は時間、いつ感じて、どのくらいの長さを感じるか。というような3つの情報と考えられている。
バーチャルな風味の増強(Odor-induced flavor enhancement)
バニラの香りは、バニラが甘いものと一緒に味わわれることが多いので、甘い香りと感じる、バニラの香りの本体であるバニリンという物質自体は苦い。それをショ糖と一緒に飲むとショ糖の甘味が増強されて強く感じる。本来含まれている物質の濃度の強さ+αに感じる強さがある。それはバーチャル(仮想的)なもので、本物ではない。そうした錯覚を活用することによって甘味を強く感じさせられる。強くさせたのはミルク、ストロベリー、アーモンド。レモンは逆にレモンの香りにつけると甘味を弱く感じる。オレンジ、ミントも弱く感じさせる。ここで注意すべきなのは、この実験は日本人の場合だということである。上述したように、匂いは記憶情報のため、あくまでも日本人の被験者によって得られた結果であり、外国人では違う可能性がある。食文化が関係するために、一概には言えない。外国人の客か日本人の客かで気をつけないといけない場合が出てくるはずである。
香り成分の性質
味は水に、香りは油に溶けるものが多い。その物質の分子に電気的な偏りがあれば、水に溶けやすいと言える。分子に電気的偏りがない物質は油に溶けやすい。香気成分も同様である。両親媒性(分子内に水になじみやすい部分と油になじみやすい部分がある物質)をもつ物質には、アルコールや乳化剤が挙げられる。アルコールには水に溶けやすい味成分も油に溶けやすい香気成分も溶けるため、世界中のアルコール飲料は多様な味と香りを持っているのである。
香り成分は脂溶性が多く、揮発しないとその香りを感じることができない。この香り成分の揮発は、水と油の界面で起こる。つまり、油に溶けることで香り成分を保持することはできるが、その香りを感じさせるには水に触れさせる必要がある。植物には独特の香りを細胞の油に含んでいるものが多く、その細胞を壊すことで香りが揮発するため、香草として用いられている。
香りを移す
料理において香りを移すこともよく行われている。だしは水溶性の香りであるメイラード反応の生成物を水という媒体に溶かしたものである。脂溶性の香りの場合はハーブとか柑橘類の香り、硫黄化合物、ネギとかニンニクの香り成分を植物のオイルに溶かすとハーブオイルができる。常温で固体の油脂、ラードに溶かすこともできる。一回、ラードを溶かして、そこへ柚子を入れれば、柚子の香りが移ったラードができる。同じようにカカオバターでもできる。脂溶性の香りを水に分散させるとどうなるか。クールブイヨンだったり、ハーブティだったり。ハーブティは入れたてにブワッと香りが立つように、香りはすぐに揮発する。一方、匂いを油に溶かすと油に保持させることができる。油に溶けると揮発しにくい。その揮発しにくいハーブオイルを水に落とすと、界面、水と油の境目で揮発が起こりやすくなる。揮発させたいのなら、水と接触させる。ハーブティも生の植物のハーブの細胞に脂溶性の香りが入っていて、それが熱湯によってつぶされて揮発する。
マグロの脂の多いトロに紫蘇の刻んだものを接触させると香りも移る。固体の脂にハーブの香りを移すことができる。これを食べると最初はトロの甘い感じがして、最後の風味が紫蘇で軽い、爽やかなマグロのトロになる。油脂が多いエマルションほど香りが長く保たれる。ハーブを水にアンフュゼ(浸ける)するか、牛乳にするか、生クリームにするかによって香りを感じる時間が違う。ハーブを水にアンフュゼするのはハーブティである。ハーブティはパッと香りが強いが、香りがもつ時間は短い。月刊専門料理の連載「フランス料理の科学」2012年7月号で、下村浩司シェフと対談したときは、生クリームにアンフュゼすると口の中に入れて160秒以上、香りが続いている状態になった。
香りを移さない
ハーブやスパイスの香りを移す、ということは、ハーブやスパイスの香りと食材を一体化させることである。香りが移った食材を食べると、食材の味や風味とハーブやスパイスが一体感を持って感じられる。一方、香りを移さない、ということはハーブやスパイスをそのまま食材の上に盛りつけるということになる。ハーブやスパイスは細胞の精油の中に香気成分を溶解して持っているために、噛んだりすることで細胞を破壊しないと香りを感じることができない。従って、柚子の皮やシソの葉をそのまま食材の上に置くと、客が食材とともに柚子の皮やシソの葉を噛む毎に、香りを口腔内に揮発させることができる。
温度と香りの揮発性の関係について。
香り成分には揮発温度があって温めると揮発しやすい。温度が下がると揮発しにくくなる。日本料理は蓋を使って温度と香りを保つ。椀の蓋をあけて香りが立つようにする。揮発性に着目した技術である。現代の西洋料理では、北欧も含めてどんどん油脂が減っている。油脂が減っているということは油に香りが溶けるので、香りをどうするか。油を使わないならどこで香りを使えばいいのかという問題が出てきている。だから最近の北欧のガストロノミーはハーブをいっぱい使うのではないか。さらに、油脂はおいしい。おいしい油脂の代わりにうま味のあるだしを使う。これからの西洋料理の傾向は、油脂を減らしてうま味のある液体を使い、植物性のものも多く使うというような日本料理に近いものになってきているのである。
調味料の原則仮説
調味料は味や香りを食材につけていくことが大きな役割である。まず、素材がもともと持つアミノ酸とか糖、油脂を考える。それに対して塩味とかうま味とか油脂という普遍的に好まれる要素を足す。さらに、文化に依存する要素として、日本やアジアは醸造とか発酵によるメイラード反応を使う。西洋は加熱によるメイラード反応を使う。さらに、それぞれの食文化のハーブとかスパイスを使う。中国料理が面白いのは醸造のメイラード反応も使い、加熱のメイラード反応も使う。これが調味料における香りの位置付けであろう。フランス料理人が発酵を使った時に困ったことが起こる。発酵の風味は日本料理を想起させるためである。そこで調味料の原則から風味をデザインすると、加熱によるメイラード反応の香りをつけることで、西洋料理の香りに無理やりもっていけるのではないか、という発想になる。
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