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執筆者の写真川崎寛也

西洋亭のこと 4




西洋亭のこと3までで、西洋亭の建物やメニューのことがやっとわかってきました。


しかし、高祖父の、西洋亭の創業者である長谷川徳太郎のことは、なかなかわからず、札幌まで行ってもわかりませんでした。


この写真も5cm四方くらいの小さい写真で、祖母の遺品から出てきましたが、どこの写真かもわからず、文字が見えるのも「STEWARTS HOTEL」と小さく見える程度です。


ここに長谷川徳太郎も行ったのかなあと思いながらもわかりません。


いつから営業していたのかもわかりません。


これは、もう、根室まで行くしかないか、と思い、ネットで色々と検索していると、国立国会図書館のホームページで長谷川徳太郎の名前を検索していると、「北海道立志編」という本が出てきました。




そこで、長谷川徳太郎の名前を探すと、見つけることができ、しかも半世までも書かれてあったのです。







しかも、写真まで出ていました。



写真だと読みにくいと思うので、書き起こしてみました。


読めない字もあるのですが、せっかくなので載せておきます。適宜改行しています。

*最初に載せたとき、間違って写した字がわからなかったのもあったのですが、札幌学院大学の澤井玄先生に修正していただけたので、修正版を載せております。澤井先生、ありがとうございました。


「一微の菜一片の肉之が調理其妙に入らば美味として湛ゆべく美食として珍とするに足るもの是れ豈に西洋料理の特色に非ずや洒味淡白特に缺くるあるも滋養の人体を肥益する功西洋料理に如くものあらんや 長谷川氏は西洋料理を以て根室に成効したるの人根室の人士西洋亭の名を知らさるなし 西洋亭は乃ち氏の督する處氏の名聲相見すべきなり


氏安政元年六月一六日を以て兵庫縣加古郡初野村字福島に生る 氏十有餘才奮て東都に出で汽船平安丸のボーイとして乗船す 更に各船に轉乗し松前丸に轉乗するに當りて<屢屢しばしば・たびたび>根室に航し根室の為すあるに足るの地たると了す 氏ボーイとして各船に在るの間西洋食の調理を研究し一として通せさるなきに至り調理の妙人をして其舌を鼓せしむるに至る


氏西洋料理を以て身を立てんを欲し之を松前丸船長に計る船長や固と氏の敏才を愛せしの人大に其の挙を賛し援くるに資金若干を以てす 氏雀躍斯業準備の為め下船し一切の諸道具を整え更に根室に航し緑町に借家して西洋料理業を開始し名くるに西洋亭の名を以てす


調理の妙と待遇の懇切と器具の美麗なるとは大に世人の嗜好に投し西洋亭の名忽にして喧伝せられ来客常に其の室に満つ 後ち梅ケ枝町に轉し益々斯業の改良を企てて倦むなし


根室の傑物鈴木幸吉氏長谷川氏の淳卜にして家業に勵しむを愛し自己所有地内に家屋を新築して氏の業務を援けんを告ぐ 氏其の好意を拝受し壮観を極めたる新築家屋に移轉し一層の改良を加へ西洋亭の名愈々高し 氏深く鈴木氏の眷顧を銘し業務の盡瘁多大を加へ利潤又従つて多く廿八年に至りて家屋を自己の所有たるに至らしむ


不幸同年の大火に都てを挙げて烏有に歸せしむ 氏直に數千金を投じて家屋を新築し毫も顧客をして不便を感せしめず 火災後倍舊の隆盛を来す


而かも災厄未だ去らず明治三十年の大火又家屋を挙げて跡なからしむ 尋常人たらんには氣沮し色廢し又再起の勇なからんも氏や屈せず更に數千金を投じ花咲町一丁目たる現住家屋を新築し着々家政を整へ遂に今日の名を為すに至りぬ


氏料理の外玉突場を設け西洋の遊技一として備はらさるなく根室唯一の西洋亭として名声嘖々たり


氏や大成此の如しと雖も自ら奉する極めて節 今尚ほ調理を為す下コックを用ひず自ら手を下して之を調理し毫も顧客をして調味の變を感せしめす顧客の絶えさる洵に偶然にあらざるなり


氏半世の成功辛苦固より之が経なりと雖も又緯と為つて氏を援けたるものは氏の篤行誠實克く人の信用を来したるに在り之を聞く


氏の二回類焼を来すや郵船の機関長長州の士吉岡一之進為めに一千二百金を電送して改築に従事せしめたりと此の一事氏の如何なる人たるやを想見するに足らんなり。」



理系には難しすぎる文章です。


よくわかりませんが、長谷川徳太郎は安政元年(1855年)に兵庫県で生まれ、十代で東京に出て船に乗り、最初はボーイで西洋料理と関わり、教えてもらっていると、「お前上手いな」と言われて、「料理人として生きていきます」と松前丸の船長に言って、なぜか根室で西洋亭を開業したようです。


「調理の妙と待遇の懇切と器具の美麗」というのは、料理がうまくて、接客が丁寧で、食器が綺麗、だから皆さんに嗜好されたということでしょうね。いまのレストランと同じです。


ところが、不幸なことに、火事で二回も店を焼いてしまっています。当時の西洋料理は、熱源がコークスでしょうから、火事は多かったようです。


それでもパトロンに助けられて、家屋を新築してレストランを続けられたようです。


いちばん嬉しかったのは、「大成此の如しと雖も自ら奉する極めて節今尚ほ調理を為す下コックを用ひず自ら手を下して之を調理し毫も顧客をして調味の變を感せしめす」という部分です。読めない字もありますが、自分が料理をする、ということにこだわっているということで、「レストランオーナー」というより、「オーナーシェフ」として、料理が好きだったのだろうというのが、非常に嬉しいです。

*「調味の變」でした。變は変わること、のようなので、味が変わったと思わせなかった、ということですね。


これでやっと「料理人の血が流れている」と明確に言えると思いました。





あと、違う資料では、明治二十七年に発行の北海道実業人名録に、西洋料理店として載っていたので、すくなくともこの年には営業していたことがわかりました。


ということで、高祖父がなぜ西洋料理人になったのか、がわかり、料理が好きだったこともわかりました。


あとは、西洋亭の創業年が知りたいのですが、それはどうやって調べたら良いのでしょうか。お知恵をお持ちの方はご一報ください。


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